父が外にいい人をつくっているのは僕も知っていた。別にそれを責める気もないし、母が亡くなってもう十年も浮いた話のなかった父が漸くその気になったのだとすると喜ばしい事だとすら思う。
 父とその恋人──ソニア=シューレン、名高い女将軍その人だ──の年がひと回り以上違おうが、僕にとって問題であるのはそこではなかった。
 ソニアはよい方で、僕に気を回してくれる。 少々融通の利かないところはあるけれど、 それは彼女の本質であり好ましいと思う。父も少々堅いところがあるが、そう言った所との相性も良さそうだ。
 彼女本人にも、父との関係にも何も問題はないし、心配もしていない。
 問題は──そう、問題は。
 父が僕に紹介する為に彼女をうちに連れてきて、初めてまともに顔を合わせた瞬間に発覚した。
 きっと彼女も感じただろうと予想する。
 顔を合わせた瞬間、僕は直感した。
 どんなにいい人だろうと、好ましいと感じようと。
 絶対に合わない人というのは存在する。
 僕とソニアは、正しくそれだった。
 有り体な言葉に表すのならば、所謂天敵というやつだ。
 それからの僕の行動はさり気なく且つ迅速だったと思う。それまでが良家の嫡男として育てられたため、僕は殆ど家事全般などやった事などなかったし、精々自分の部屋の整頓ぐらいしかできなかった。
 まず手始めにグレミオに適当なことをいって料理を習い、一人で、時々はテッドを誘って 狩りと称した小金稼ぎに勤しんだ。本からも知識を得て、それの実践も行った。たったひと月で、僕は見違えるように変わった。それはもう、テッドも驚いてしまうほどに。

 ある時、僕はテッドを誘って釣りに行った。川の畔で魚を釣り上げ、未だ釣り糸を垂らす彼の横で、僕は本から得た知識を実践するために火を起こす。最近宿した火の紋章を使えば、それは案外たやすいことでなる程、紋章とはこういう使い方もできるのだと妙に感心したものだ。
 初めての割にはそれなりに手際よく薫製作りに望めたと思うが、それをテッドはぽかんと口を開けて見ていた。
「お前、何やってんの?」
「え、何って薫製作ってるんだけど」
 まだ昼前だから日が沈む頃には出来るだろうと思いながら、残りの魚に木串を通す。あまりにも心外な声にテッドを見れば、彼は心底驚いたような顔をしていたので顔を顰める。
「なに、その顔」
「お前、なんかあったのか?」
 困ったような、けれど真剣に聞かれてしまい、僕はちょっと眉を寄せた。
「何かなくちゃ僕が薫製作るのは可笑しいっての?」
「お前は必要ない事はやらんだろうが」
 そう言う人間だと頷かれて、僕は渋面を作る。
 それからちょっと間を置いて、まあテッドになら話してもいいだろうと勝手に思った。
「ソニア殿に会ったんだ」
 そう言うと、テッドはそれでと先を促す。
「旅に出ようと思った」
「はぁ?」
 素で上げられたその声に、少し可笑しくなってしまう。
「なんでそうなるのか全く分からん。思い至った経緯を端折るなよ、もう全部吐いちまえ」
 結論を言っただけなのに、そこまで反応を返されると面白くてたまらない。僕は笑いながらテッドの要望に応える為、言葉を紡ぐ。
「僕はね、別に父さんとソニア殿の中を認めたくない訳じゃないんだ」
 むしろ祝福したい気持ちでいっぱいだ。
「じゃあなんで出てくなんて言うんだよ」
「だって僕とソニア殿は天敵同士なんだもの」
 それ以外の理由なんていらないし、存在しない。存在しても困る。
「僕とソニアは絶対に分かり合えない」
 断言した僕に、テッドは呆れたような顔をしていう。
「そんなの、一度会っただけで分かるもんかよ……それともその時、何か会ったのか?」
「何も無いよ。でもさ、そう言う事、無い? 直感したんだ、絶対に合わない。僕はソニア殿が嫌いじゃないけれど、どんなに頑張っても合わせる事は無理だと思った」
 そう言うと、テッドは苦い顔をしながらもまあそう言う相手も無い事もないな、と呟いた。
「ソニア殿もそう思ったはずだよ。だって僕と顔を合わせた瞬間戸惑ったような顔をしてから、妙に困ったような顔をしていた」
 どう扱っていいか分からなかったんだろうと思う。少しだけ話をしてみて、正直で真っ直ぐで、曲がった事が嫌いな印象を受けたから。
「なんて言えばいいのかな……清廉潔白っていうのかな」
「それなら確かにお前と合わせるのは辛いかも知れないな」
 なんだそれ。まるで正反対だというような言い方をされて、僕は憮然とする。
「お前、自分が無垢とか言いたいのかよ」
「それはないな」
 呆れたように僕を見るテッドに即答すると、テッドは非常に微妙な顔をした。
「だってお前、ねじくれてるだろうが。そんなヤツに真っ直ぐな人が合わせるのはキビシイだろ」
「だろうね」
 とうとうテッドも認める所になった。
「正直お互いに取り繕わなきゃ、父さんに折り合いが悪いのばれてたんじゃないかと思うんだ」
 バレてしまったら、なんだかんだ言いつつ職務以外は僕を優先してくれる父が、ソニアを諦めてしまうかも知れない。そうなる事は僕の本意ではなかったし、僕もソニアに負い目を感じる事になるだろう。それは激しく遠慮したい。
「話が流れる可能性があるってことだな。で、それでなんで旅に出ることになるんだ?」
「僕にはソニア殿と向かい合って生活するとか無理だ。不可能だ。奇跡でも起こらない限りあり得ない」
 多分ソニアの方が先にまいるだろう。いや、先に焼き切れるのは僕の方か。
「無茶苦茶言ってるな、少しは努力の気概を見せろよ」
 テッドは軽く言ってくれるが向かい合ったあの一時間……一時間しか保たなかったと言ってくれるな、一時間も保ったのだ。半日棍の修行をやっても彼処まで疲れない。取り繕う事があんなにも精魂使うのだと初めて知った。
「テッドは───そういう天敵とかとずっと向かい合って暮らせるんだ?」
 そう。ずっと、なのだ。父の恋人──いずれは義理母となる人だ。僕はまだ父の庇護の下にある子供で、それこそ父母が亡くなるまで何かと向かい合っていく必要も義務もあるわけで。
 僕とソニアの平穏のためにも
「お互いの為に、どちらかが去らなくてはいけないんだ」
 例えるならば竜と虎、犬と猿、コブラとマングースのごとく。共存などない、ぶつかり合いどちらかが(あるいは共に)果てるまでこの対立は続くだろう。
「…………兎も角、出ていく意志は変わらないー、と」
 眉をひそめつつ米神を掻くテッドに、僕はさらりと続ける。
「まぁ何もなくてもいずれは旅に出るつもりだったし」
 ちょっと早くなっただけとつなげれば、露骨に顔をしかめてテッドが呟く。
「お前……いや、そういう奴だったよな」
 そういう奴ってどういう意味だ。
「しかし、なんだってまた」
 諦めたようなニュアンスで問われて、僕は少し溜めてから言葉を紡ぐ。
「僕はいずれ父さんの跡を継がなければならない。そう育てられたからね、構わないんだ。けど、その前に、僕は世界を見たいんだ。沢山の事を見聞きし、経験したい」
 自分の手を見つめながら言うと、
「要するに、それまで好き勝手したいって訳だ?」
 人が折角聞こえが良く言ったというのに、テッドはすっぱりと切って捨ててくれた。流石は僕の親友というだけの事はある。これぐらいはやって退けなければ、僕の友は務まらないというものだ。
「人が折角丸く言ったというのに。流石はテッドだね」
「なんだそりゃ……」
 褒められてる気がしないというテッドに、僕は笑んでそんなことはないと言い切ってみせる。
「まぁいいけど……で、お前、何時旅に出る気だよ」
 心底呆れたように漏らしてから、テッドが尋ねてくる。それに僕はあまり間を空けずに答えた。
「今度父さんが戻られれば、またすぐに出かけられると思うんだ。北の方が焦臭いからね……それに乗じて出ようと思ってる」
「割と近いんだな……そうか、じゃあオレもそれに合わせるか」
「合わせるって何を……?」
 テッドの言に尋ね返せば、テッドは火にかけられた魚の一本を手に取り、焼き具合を確かめてから一口かじる。
「オレもそろそろ赤月を出ようと思ってた所だ。少し長く居過ぎた気もしてたし、此処にずるずる居着いちまったのもティルが居たからってのも大きい。潮時だろうとは感じてたんだ、いい機になる」
「聞いてない」
「そりゃ言ってないからな」
 間髪入れずに打ち返せば、テッドは苦笑する。困ったような笑みに、何だか無性にムカムカしてきた。
「なにそれ、一言もなく出てくつもりだったの?」
「今言ったんだからいいだろ、別に」
「良い訳がないだろ」
 今この話題にならなければ、きっとテッドは何も言わずに出ていっただろう。否定しないのに余計に腹が立った。
「……テオさまには話すつもりだった」
「僕には話さないつもりだったんだ?」
 父が認めてしまえば、僕にそれをひっくり返すだけの力はない。テッドにとって僕はその程度の存在だったのかと思うと、腹が立つよりもなんだか悲しくなってくる。
「お前に話せば引き止めるだろ」
「そりゃ、引き止めるよ。一緒に居たいからね」
 妙に言い辛そうに、テッドは続ける。
「ティルに引き止められたら、出て行き辛くなるだろ。妙に未練がましくなっちまう」
「……僕はテッドの未練になるくらいには思われてるの?」
「ったり前だろ!」
 それこそ心外だと言わんばかりに肯定されて、杞憂だった事にほっとする。
「あのさ、少しでいいんだ。一緒に旅をしてくれない?」
 テッドも旅に出るのなら。僕よりも余程旅慣れているだろうテッドから、色々と教えを請いたいし、何より心強い。
「あー……ティルは何処に向かうんだ?」
「取りあえず、父さんと逆の方へ行こうと思ってる」
 答えれば「じゃあ南か……」とテッドは呟く。
「赤月出るまでなら付き合ってやるよ」
 そう言って笑うテッドに、嬉しくなる。
 群島との境のエルイールまでだから、僕らの足でおよそ三ヶ月強といったところか。
 二人で旅をするのを思って、どうしようもなく愉しくなった。